「高田松原臨時停車場」がどのような経緯で設置されるようになったかについては、残念ながらそれを示す記事は見つけることは出来ませんでした。単に、昭和36年7月9日に下記の記事がお目見えしております。

−高田松原に臨時停車場−
盛鉄局では、23日から盛岡〜陸前高田間に快速列車「しおかぜ」を運行するが、これに先立ち陸前高田駅では高田松原に近い砂畑地区の踏み切り付近に臨時乗降場を設けることになり、7日から工事を進めている。高田駅から高田松原までは徒歩で20分近くかかり、これまで汽車利用の海水浴客にかなり不便を与えていたもので、前から設置が望まれていた。この乗降場は「しおかぜ」専用でレールや枕木を積み重ね、砂利を敷くホーム形式の簡単なもので、長さは35M。しおかぜ運行までに完成するが、同駅や市当局も「これで海水浴客も楽になります。」と語っている。


この記事によると、少なからず設置を求める声もあったようですが、私見を述べるとすれば、前回も述べたように、前年の津波からいち早く復興し、観光地として再生を図りたい、そのためにも観光客への便宜を図りたいという地元の熱意もあったのではないかと思います。


臨時停車場について

前述の記事にもあるように、初年度はレールや枕木を積み重ねた簡単なもので、長さ35メートルのホームが設置されました。これも私見ですが、この停車場は、おそらく毎年作られては、撤去されたものと思われます。それを類推させる記事として、昭和38年の7月17日の同じく東海新報の記事では「高田駅は、21日の松原開きのためこのほどプラットホームに飾り付けを行い・・・・(途中省略)、また松原海岸入口に、ことしも、しおかぜ号の臨時駅プラットホームが作られたが・・・・」とあり、また、昭和39年7月19日の同紙にも次のような記事がありました。

−21日から開業−
−高田松原臨時停車場−
高田松原への海水浴客のため毎年設置される大船渡線高田松原臨時停車場はことしも21日から開業する。同停車場は高田松原駅と脇ノ沢駅の間、松原入り口踏み切りわきに設置された。ここからは、海岸まで約500メートル。古いマクラ木700本を利用した延長80メートルのホームが完成、21日から8月16日まで利用される。


初年度に35メートルであったホームの長さが最後の年には80メートルにまで長くなっていることが分かると思います。


利用状況

昭和36年(設置初年度)の「しおかぜ号」運行初日を伝える記事によれば、高田松原臨時停車場で下車した乗客は150人だったそうです。また、昭和38年度の運行初日には、しおかぜ号が水沢方面から約300人を運んできたと伝えております。さらに、昭和39年8月21日の記事によれば、この年、高田松原臨時停車場での乗降客は27日間で12338人に上り、前年度よりも3748人も多い結果で、これは臨時停車場が設置されるようになってから過去最高の利用者数となったことを伝えておりました。このように、年々臨時停車場の利用客は増えていったようです(昭和39年が例年にない好天続きだったということもあるようですが・・・)。

臨時停車場の終焉

高田松原臨時停車場は、昭和39年度をもって、以後設置されることはなかったようです。それは昭和40年7月9日に次のような記事があったことから分かります。

−高田松原臨時停車場−
―今夏は設置されない―
高田松原への海水浴客のための国鉄大船渡線高田松原臨時停車場は、今年の夏は国鉄当局の方針により設置されない。
同停車場は、毎年、高田松原海岸が内外からの海水浴客でにぎわう7月後半から8月中旬ごろまで陸前高田駅と脇ノ沢駅間、松原入り口踏み切りわきに設置されていた。
国鉄では、昨年同停車場の利用人数が一万二千三百余人とこれまでの最高を示しており、ことしも同じようなにぎわいが予想されるとして、その分は国鉄バスを臨時増発して訪れる海水浴客のサービスに努める。



上記にある通り「国鉄当局の方針により」という理由だけで、具体的な理由は書かれておりませんでした。さらに、翌昭和41年7月15日の記事を見ても「なお、例年臨時開設した「松原駅」は今年はとりやめとなるもよう」 とだけ伝えており、これ以後、臨時停車場を伝える記事は途絶えてしまいます。

さて、どうして臨時停車場が廃止されてしまったのかについてですが、何しろ40年以上も前のことですので真相はわかりません。ただ、事実として分かっていることは、昭和36年に設置されるようになって以来、年々乗降客が増えていったであろうこと、そして、最終年度となってしまった昭和39年には過去最高の1万2千人以上もの利用客が高田松原臨時停車場を乗降したという事実です。(ちなみに、当時を知る方に伺ったところ、やはり、ホームにはたくさんの乗客がいたとのことです。)
残るは、過去の記事をもとに、その理由を探るしかないのですが、一つ気になる記事を見つけました。それは、先ほどの、昭和39年の高田松原臨時停車場が過去最高の利用客となったことを示す記事です。

− 一万二千人が乗り降り −
− 高田松原臨時駅閉じる −
去る7月21日から盛岡〜盛間を走っていた海水浴列車「しおかぜ」号は今シーズン最後の海水浴客を運んで16日で運休した。「しおかぜ号」はさる7月21日から27日間、気仙沼、陸前高田、大船渡各市内の海水浴場に内陸部から多くの海水浴客を乗せてきたが、ことし高田松原海水浴場入り口の臨時駅“松原ホーム”の乗降客は12338人と同ホームが設けられてから最高の利用数をみた。ことしは、好天に恵まれたことと国立公園編入などがあって県内陸はもちろん関東、関西方面の客を吸収して・・・・・(途中省略)・・・・・。このため、シーズン中での最高降車数は8月9日(日)の642人で1日平均にすると乗車153人、降車304人となったが、陸前高田駅では、シーズン中無礼証明による帰着駅の料金精算で客に迷惑をかけたとしているが、松原海岸にくるときは、往復キップをぜひ利用するようにと来シーズンに先がけて呼びかけている。


この記事の最後の方に、高田松原臨時停車場の管轄駅である陸前高田駅の話として「シーズン中無礼証明による帰着駅の料金精算で客に迷惑をかけたとしているが、松原海岸にくるときには、往復キップをぜひ利用するように・・・」と呼びかけていることです。「無礼証明」という意味は正直私には分かりません。ただ、これだけたくさんの利用客が臨時停車場を利用するとなると、いろいろ大変なことが発生してくると思います。

以下は私の推測ですが、臨時停車場は無人駅ですので、たくさんの人が下車した場合、車掌がきっぷを回収するのは大変だと思います。また帰りのきっぷを購入していない場合、乗車後にたくさんの人が車掌にきっぷを買い求めることも想像できます。「往復キップをぜひ利用するように・・・」と呼びかけているのは、そういうことによる混乱や列車の運行に支障を来たさないため、「予めきっぷは往復分買っておいて欲しい」と言う意味ではないでしょうか。逆にいえば、現にそういう問題が昭和39年に発生していたと読み取れるのではないかと思うのですが、邪推でしょうか?

そういう仮定に立って考えると、先ほどの昭和40年の臨時停車場の不設置を伝える記事の中にある「国鉄では、昨年同停車場の利用人数が一万二千三百余人とこれまでの最高を示しており、ことしも同じようなにぎわいが予想されるとして、その分は国鉄バスを臨時増発して訪れる海水浴客のサービスに努める。」という内容も、「今年も同じような利用客が予想され、対応できない可能性があるので、今年は臨時停車場は設置せず、乗降は駅員の居る陸前高田駅に一本化し、玄関口が遠くなった分は国鉄バスの増発で対応する」という意味にも取ることが出来るようにも思われます。私は、これを調査する前は、「臨時停車場の利用客が少なくなったから設置されなくなったのではないか?」と単純に考えておりましたが、調べを進めると実際はそういう単純な話でもなかったような感じがします。
東海新報の記事(以下記事)を調べた結果、高田松原臨時停車場は、昭和36年〜昭和39年の4年間、夏季限定で営業していた駅だということが分かりました。

設置期間は、夏の臨時列車「しおかぜ号」の運転期間と合わせて開業していたようです。
具体的な設置期間は年度によって差はあるものの、概ね高田松原海水浴場が海開きとなる7月下旬〜8月中旬迄毎日営業しておりました(しおかぜ号もその間毎日運転)。「しおかぜ号」だけのために設置されていた臨時停車場のようですが、昭和39年について言えば、しおかぜ号だけでなくその他の普通列車も停車していたという記事も残っておりました(他の年度は確認できず)。

このサイトはJR東日本・大船渡線営業所とは関係ない個人サイトです。

昭和30年代大船渡線に臨時駅があった

 
 
陸前高田〜脇ノ沢の間に夏の期間「高田松原臨時停車場」が存在していました。
サイト案内
設置までの経緯
ちなみに、「しおかぜ号」がいつの年から運転されるようになったかについてですが、当初、昭和36年が始まりであると思われていましたが、もう少し古い年度の記事を調べた結果、昭和34年の7月25日〜8月16日に、土日限定で一ノ関駅〜陸前高田駅間で運行されたのが始まりのようです。当時の陸前高田市当局が、一ノ関駅〜陸前高田駅間にディーゼルカーを運行して欲しいと国鉄当局に陳情したと、その当時の記事には書かれております。列車名は計画段階で「まつばら号(仮称)」でしたが、運行が正式に決定された際に「しおかぜ号」と命名されたそうです。
おそらく、これが高田松原への海水浴列車の始まりと思われます。

翌年の昭和35年は、5月にチリ地震津波が襲来したため、高田松原内の観光施設はほとんど流出してしまいました。そのため、この年は「しおかぜ号」運行の記事は見つけることはできませんでしたので、おそらく運行されなかったものと思います。しかし、翌昭和36年になると、運転区間を盛岡駅〜盛駅間に延長して「しおかぜ号」が再び登場しました。それと同時に「高田松原臨時停車場」が作られるようになり、以後、その年も含め4年間臨時停車場が設置されました。(しおかぜ号も毎年運行。なお、しおかぜ号は昭和40年以降も引き続き夏季に運転されていたようです。)

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この調査にあたり、当サイトの趣旨をご理解いただき記事の使用を許可いただいた東海新報様にこの場を借りてお礼を申し上げます。


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まとめ

高田松原臨時停車場が開設された昭和36年は、前年のチリ地震津波で大打撃を受けた高田松原の観光施設の復興が区切りを迎えた年でした。臨時停車場はその復興元年に観光客を呼び戻すべく、その起爆剤として期待されたのではないかと思います。昭和30年代は「観光」というものにスポットが当てられるようになった時代であり、このような中で昭和38年には碁石海岸などが国鉄の「周遊地」に指定され、また、昭和39年には、懸案であった気仙沼湾や高田松原、碁石海岸などが「陸中海岸国立公園」に編入されました。この時代の記事を見ると観光の問題を取り上げるものが多く、観光の底上げを図ろうと努力している自治体の姿勢を垣間見ることが出来ました。「高田松原臨時停車場」はそのような模索の過程で一時代を駆け抜けた駅だったのかもしれません。
写真 恐らくこの場所に臨時停車場があったと思われる 陸前高田〜脇ノ沢間の「松原踏切付近」
存在していた期間